やったね

神様

ジャニオタと消費と罪悪感についてのメモ書き

卒制用に考えていたことを自分用にまとめたもの。何か良い文献があったら教えてください。


この期間中、何か作らなきゃと考えていても全く身体が動かなく、興味があったり、なんとなくアイドルに関係のありそうな本をつまみ読みしていた。

元々私は、アイドルのことを神様だと思っていて(アイドルの語源が『偶像』であること、自分がクリスチャンの家庭で育ったため宗教と無意識に絡めていたのかもしれない)今までの作品も、アイドルと宗教をテーマに作品を制作してきた。

コロナの影響で学校に行けず、現場もなくなり、自担に会えない状況が続く中A.B.C-Zはジャニーズweb内での連載で「動画で交換日記」という企画を始めた。確か河合くんの提案で、メンバーがそれぞれ自宅から1~2分の動画を投稿、次の人とその人に話してもらうお題を指名するという内容で、4月から7月まで約3カ月毎日途切れることなくメンバーからの動画が配信された。

ぶっちゃけ、内容はほとんど覚えていない。これは好きじゃなくなったとか毎日で飽きたとかではなく(中盤から惰性で見ていたのは否定出来ないが)普段ステージに立ってキラキラアイドルでいてくれているA.B.C-Zのメンバーが「自宅」から「私服」で動画配信をするのを見るのに段々と耐えられなくなったからだ。

前述した通り、私はアイドルのことを神様だと思っているので、A.B.C-Zのこともアイドルである以上神様だと思っていた。もちろん彼らは実在しているし、運が良ければ触れることも出来る生身の人間であるが、アイドルという職業である限り、私は自分のエゴだと重々承知の上、表の彼らしか基本的に見たくないと思っているのだ。

「動画で交換日記」の中で、担当の塚田くんは自身オススメの料理を自宅のキッチンから動画で教えてくれた。感じ方は人それぞれだが、私は最初は「塚田くんのキッチンが見れるなんて最高じゃないか」と思っていたが、時間が経つにつれて「この映像を見ても良かったのか」と感じるようになった。

この動画を見るにはファンクラブに入るのとジャニーズwebの登録として月額330円払うのが必要で、メンバーもステイホーム期間中に私たちファンが喜んでくれると思って、この動画をあげてくれたので、一切悪いことではないし、その間も動画以外のブログは更新されていたし、メンバーもテレビに出たり、配信ライブを行ってくれた。

ただ、雑誌でプライベートを見せてくれるのではなくそのままプライベートが流れてくるのに罪悪感があるのだと気付いた。


20209月号のユリイカで佐倉智美が紹介している東園子は宝塚での例ではあるが、オタクは、推しの「舞台上の役柄」「役者としての存在」「プライベートの姿」「誰にも見せない非公開している個人」の四段階を使い分けながら他のタカラジェンヌとの関係性を「物語消費」しているとあった。そして、オタクは尊先によって紡がれる関係性を「相関図消費」していると紹介している。相関図消費は「関係性萌え」とも言い換えられるが、ここでは相関図消費と表現したい。

該当記事を読む前から、自分が今までアイドルを応援する行為に応援以外の感情がある気がしていたので、消費という表現があまりにも直接的で個人的に大きく衝撃を受けた。私たちは、応援することにより消費しているのだと。そしてこれはジャニーズにも全く同じことが言える。

コンサートで歌って踊ったり、ジャニーズのタレントとしてテレビに出ているのを消費し、ジャニーズに入ってからデビューするまで(もしくは今までの出来事)も消費している。そして、ブログで別のグループのタレントとご飯に行ったことや、グループのメンバーとの自撮りを見たり、もしくは雑誌での発言によってある時期のタレントの行動や私物を特定しようと膨大な量の情報を消費しているのではないか。

これらも全く悪いことではない。何故なら、タレント、雑誌から直接供給が来ているからだ。私も、いわゆる「オン」の彼らのことはなるべく沢山知りたいし、沢山の情報を受け取ることができる。「動画で交換日記」も、オンの彼らだと認識して来たが、ジャニーズのオンライン、インターネットへの理解が進むにつれてオンとオフの境目が曖昧になってきているように感じた。

ほんの数年前まで雑誌がインターネットに載るときは黒塗り、会見でも写真には写らなかったのに、今では番組公式SNSだけでなくタレントやグループ単位でSNSを開設しているし、Youtubeでもパフォーマンスが今も観られるようになっている。私もいくつかフォローしているが、やっぱりステージに立っている時のようなきらびやかな雰囲気は無く、男の子(あえてこの呼び方をする)が喋ったり、Youtubeの企画をしているように見えてしまう瞬間が多々あった。

今の流行を取り入れ、ファンを増やしていく動きではあるが(無料で見れるのはともかく)オフに近い姿が供給としてあると本当にそれを消費していいのか?と戸惑ってしまうのだ。多分この感情は罪悪感だ。

この罪悪感が自分だけか疑問だったのでSnowManのオタクの友人に、アイドルを応援する中で罪悪感があるか聞いてみた。すると彼女も罪悪感はある。と答えた。

それは、私とは違うもので、メンバーにいる17歳の少年が若さを売りに(まだ17歳だしなどという発言)すると罪悪感があると言う。感覚的には「やっちまったな」と思うらしい。ちなみに私や彼女より1つしか変わらないメンバーに対しては基本的にどの言動でも罪悪感は抱かないらしい。

あまり周りにオタクがいないので、他にアンケートをとるつもりだが、やはり人それぞれの意識で罪悪感のスイッチが入ってしまうのかと感じた。

追記:アンケート作ったのでもし心当たりがあれば答えて欲しいです

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScPpToAZU76PSf5FZFuP3qGL7GA0OfNnXd42oE7NH8FcWVutA/viewform



また、最近ジャニオタ内でもジェンダーについて考える人が増えたり、タレントがフェミニズムについて言及する機会が増えたように感じる。平成生まれだったり、外国にルーツを持つような彼らがファンにそういった意見を伝えるのはとてもいいことだと感じると同時に、まだ少し古いとも思えるジャニーズのジェンダー観、ホモソーシャル的な関係性が気になってしまう。

どのインタビューか忘れてしまったけれども、自担が「女の子は女の子らしくいてほしい」と言っていて、少しショックを受けた。自担は「生まれ変わったら女性アイドルになりたい」と公言していて、実際女性アイドルの格好、人格を持っていて楽しそうに女性アイドルらしいパフォーマンスや楽曲を披露しているのが好きだったので、そういう風に考えていたのが悲しかった。

今年の8月にnoteでジャニーズのホモソーシャルについて言及している記事を読んだ「ジャニーズのアイドルたちが男性との繋がりの中で長く過ごすにあたって、『ホモソーシャル』形成し、それを成立、維持させるために『ミソジニー』、『ホモフォビア』の意識を持つようになったことが、ジャニーズアイドル達の遅れたジェンダー観の現れにつながっていると考えられるのではないか」という一節にある通り、早ければ910歳から思春期、青年期を男性ばかりの中で過ごすことが多い彼らは無意識にホモソーシャルを築いてきたと考えられる。

しかし、そのいわゆるホモソーシャル的な塊の中で生まれた「絆」を私たちは消費しているのではないか?

201911月号のユリイカでの西原麻里の寄稿文のタイトルはそのまま「ジャニーズの関係はホモソーシャルか」であった。文章中では主にジャニーズを取り巻く要素の一つとして「異性愛」がある一方でメディア、特にアイドル雑誌(=ドル誌)では女性を排除し、男性同士の関係の親密さを積極的に描いていると記されている。

ドル誌内のインタビューでは特定のコンビ、もしくはグループ内での絆が強調されたり、絆を示す記号として異性愛を前提とした恋愛であったり身体の密着を強調する場面が多いとされた。それが、雑誌の編集部からの要望だけでなく、読者の少女達からのリクエストである場合もあるということはドル誌を読めばわかるのではないだろうか。

そして西原はジャニーズのホモソーシャルの特徴として女性の存在を無化した上で、男性同士の(擬似的な異性愛の表現を含む)「イチャイチャ」を鑑賞し楽しむ女性の可視化であると述べた。

この鑑賞して楽しむ事こそが消費であり、一種の罪悪感に繋がるのではないかと考える。


私はバッド・フェミニストを自称している。バッド・フェミニストが何かは個々で調べてもらう事にして、フェミニズムの思想に共感している女性として、ミソジニーホモソーシャル的な思想空間はNOと言いたい。だが、ジャニーズがある種ホモソーシャル的であり、彼らの絆がドル誌で伝えられ消費されていくのも事実なのだ。

この文章を書く際に参考にしているユリイカや、多少繋がりがあると感じたBLの研究書籍ではジャニーズのホモソーシャル、絆をBL的であるとしている文献もいくつか見られた。

1985年に書かれたジョアンナ・ラスの「Pornography By Women For Women,With Love」を翻訳、解説している文章をたまたま見つけた。読んでいくと、この文章内で主に書かれているのはスタートレックのファンダム、カーク船長とスポック(K/S)について、それらを楽しむ彼女らがどういった心情でK/Sを書き、消費したかという内容だった(私の読解力が低いのでだいぶ大まかな表現になっているのでぜひ読んでほしい。おそらく海外におけるBLが可視化された黎明期の一つだと思う)

スタートレックが放送された1979年当時の女性達の社会での立ち位置が今よりも低く「問題は(女たちが)自身の身体を充分に好めないことにある」「彼女達の行う事が望んでいるのは性的な激しさ、性的な楽しみ、選択の自由、文化の全てにおけるジェンダーと性的役割に関する議論から完全に自由になった愛、そして感情的かつ性的な弱さから解放され許されるような安全な場所である」と書かれている。もちろん己の欲望のままにK/Sを書き、消費した女性達もいたと思うが、時代を考えるとそういった意図でK/Sに向き合った女性もいたのではないだろうか。

前述したジャニーズのホモソーシャルを消費する女性という図も、全てではないが多少当てはまるのではないか。この辺りをもう少し掘り下げたい。ちなみにざっと調べた限り1979年当時のスタートレックに女性キャストは1通信士1人しかいなかった。


このジレンマが気持ち悪い。ジャニーズもフェミニズムも関係のない世界に生まれたかった。



参考にした文献

ユリイカ 2019年11月号「日本の男性アイドル」

ユリイカ 2020年9月号「女オタクの現在」

ジョアンナ・ラス「ポルノグラフィー、女たちによる、女たちの為の 愛とともにあるもの」 、ざっくり読めるver 

https://kawaikunaimono.booth.pm/items/1942266

【ジャニーズ×ジェンダー】ジャニーズの"遅れた"ジェンダー観はどこからやってくるのか?

https://note.com/miba/n/naa9237e31f55